2(中)詰まりに詰まっていたMOTHER2の開発を再スタートさせて僅か1年弱で完成させる
3(三)HAL研究所の借金16億円を社長就任から僅か5年で完済
4(捕)HAL研究所時代にポケモンの海外ローカライズ作業に関わる(ゲームフリークが6年かけた物を僅か1週間で解析移植)
5(指)任天堂経営企画室長時代に大乱闘スマッシュブラザーズDXのデバックに参加
6(右)プログラマー時代に「バルーンファイト」「ゴルフ」等をプログラム
7(一)HAL研究所社長時代に桜井政博と共に大乱闘スマッシュブラザーズを開発
8(左)42歳の若さで任天堂の4代目社長に就任
9(二)任天堂社長としてゲーム人口の拡大として「DS」「Wii」を世に送り出す
高校生時代にプログラム出来る電卓で自作のゲームを開発
高校生時代にHP社のプログラム出来る電卓を室蘭市長を務めた父に買ってきてもらいそこからプログラムを行った
HP社の日本代理店にその作った作品を送った所、そのクオリティに驚愕し、HP社の人たちは岩田少年に資料等様々な物を送ったそう
因みにこの時に送ったのは「スタートレックの二次創作」だそうで磁気カセット4枚にも及び超大作であったそう
因みに当時高校生であった岩田少年はバレーボール部にも所属しており、任天堂社長になって多忙を極めても同期会には顔を出していた
命日でもある7月11日はその同期会があり岩田はメールで出席出来ないと同期達に伝えた
詰まりに詰まっていたMOTHER2の開発を再スタートさせて僅か1年弱で完成させる
約4年かけていたが一向に完成せず、ついにはメインプログラマーがいなくなるという最悪の事態に陥った。
そこに現れたのが当時HAL研究所の社長であった岩田。岩田はプログラムを見るや否やこう言った。
「このままでは出来ないと思います。今あるものを使って完成させるなら2年かかります。
しかし、私に1から作らせてくれるというのなら、半年で完成させます。どちらにします?」
製作者であった糸井重里始めスタッフは後者を選択。糸井曰く「この時、彼を神だと思った」
この時の動かなかったプログラムは岩田は約1カ月ぐらいで動くようにして見せた。
その後岩田は当時としてはまだ普及すらしていなかったパソコンメールを全社員のパソコンにインストール(もちろん自ら)
そして山梨のHAL研究所から東京のエイプ(MOTHER2の製作会社)にサーバーを構築して
そこに「誰がどんな作業をしたか分かり、更新したことを伝えずに済む」という環境を構築。
現在のGitのようなものを「なんとか作れちゃった」らしい。
因みに当時はアセンブラが主流だった時代にC言語開発に移行することも決めた。
その後本当に半年でほぼ完成。そこから半年かけてブラッシュアップをし1994年8月27日に発売された。
糸井と岩田はその後も親交があり「ほぼ日刊イトイ新聞」の立ち上げにも関わっている。
HAL研究所の借金16億円を社長就任から僅か5年で完済
HAL研究所はバブル経済の崩壊の煽りを受けて多大な負債を抱える。
1992年に和議を申請するも負債は16億円残ってしまった。
当時の任天堂の社長であった山内溥が「岩田を社長にするなら援助する」という条件を出したため、経営のけの字も知らなかった岩田はHAL研究所の社長に就任。
その後は星のカービィのヒット、大乱闘スマッシュブラザーズのヒットもあり、1999年に負債は全て完済となった。
この時の星のカービィのヒットは本当にHAL研究所の窮地を救ったと言っても過言ではなく、初代カービィ~星のカービィスーパーデラックスまでの本編作品が全てミリオンヒットというとんでもないヒットを果たしている。
因みにこの借金を抱えていた際に前述のMOTHER2、後述のポケモンの開発にも関わっており、休日返上で働いていた為、案の定入院をしてしまった。
HAL研究所時代にポケモンの海外ローカライズ作業に関わる(ゲームフリークが6年かけた物を僅か1週間で解析移植)
ポケモンが1995年2月27日発売されると口コミで広まっていき、大ヒットを飛ばす。
ゲームフリークとして次回作である「金・銀」の開発を開始したが、難航してしまう。
そこに当時の任天堂の社長山内溥が「赤・緑を海外展開しろ」というハイパー無茶ぶりをかます。
当然金銀の開発にリソースを割いていたゲームフリークに海外ローカライズする労力など一切無かった。
しかし突如として現れたのは当時HAL研究所の社長だった岩田。
ポケモンの製作に関わっていたクリーチャーズに関わっていた縁からローカライズ作業を手伝うといい出しプログラムの解析を始める。
継ぎ足しで作られて複雑なプログラムをあっという間に解析し、ローカライズ作業をあっという間に進めてしまった(流石にローカライズ作業は他人がやった)。
その後はその解析したプログラムを元に「ポケモンスタジアム用の戦闘プログラムとセーブドキュメント」を作成したりとポケモンの海外展開およびその後の商品展開を手助けした。
メインプログラマーであったゲームフリークの森本は「あの人は社長なの?プログラマーなの?」と岩田の能力に疑問と驚愕を覚えていた。
その岩田は金銀開発時のグラフィック圧縮ツールを開発し提供したり、株式会社ポケモンの設立に尽力している。
何度も言うが当時はHAL研究所の社長である。
任天堂経営企画室長時代に大乱闘スマッシュブラザーズDXのデバックに参加
HAL研究所の負債を完済した後、社長を辞任。その後任天堂の社長であった山内溥から誘われる形で任天堂に入社(この時同時期に山内に誘われる形で入社したのが当時三和銀行に努めていた君島達己5代目任天堂社長)、取締役経営企画室長に就任する。
大乱闘スマッシュブラザーズDXは開発規模も内容も増大し、「富士山のご来光を見て寝る」「桜井政博が過労で倒れて点滴打ちながら作業」「スタッフの何人かが入院」という非常事態に陥る。
そこで元HAL研究所の社長であった岩田が緊急参戦。当時、取締役経営企画室長としてフルタイムで働いていたのにも関わらず3週間の間コードレビューやデバックを行っていた。
コードを読んでは「ここがバグ」と言い当てたりと脅威的なデバック作業を見せ、予定通り大乱闘スマッシュブラザーズDXは2001年11月21日に発売。
このデバック作業が天才プログラマーと称された岩田の最後の現場であった。
プログラマー時代に「バルーンファイト」「ゴルフ」等をプログラム
バルーンファイトはAC版とFC版双方を同時に製作していたのだが、余りにもFC版のクオリティが高かった為にAC版のプログラマーは岩田に話を聞きに行ってた程。
この独特の浮遊感は後にスーパーマリオブラザーズの水中面に生かされることになる。
FC版のみに搭載されている「バルーントリップ」は岩田が僅か3日で仕上げたものである。
因みにこの作業中に横井軍平(ゲームウォッチ・十字キーの発明者)がチェックをし、「岩田さん、こことここを、こうしてほしいねんけどなあ」と指示した。
当時の環境では早々簡単に修正できない箇所であったのにも関わらず岩田は「ちょっと待ってください」とキーボードを走らせて「できました!」
思わず横井も「もうできたん!?」と声を上げるしかなかった。
ゴルフはバックスイングの開始、ボールを打つ強さの決定、インパクトの瞬間を決定(タイミングがずれると飛ぶ方向がずれる)=「ボタンを3回押してショット」という、現代ゴルフゲームの基礎を確立した作品であり、ニンテンドースイッチのイースターエッグとして仕込まれる程の出来であった。
HAL研究所社長時代に桜井政博と共に大乱闘スマッシュブラザーズを開発
桜井が星のカービィスーパーデラックスの開発がひと段落した際に新しいゲームの企画を考えることになる。
その際に岩田が「プログラムは自分が組みから企画してみなよ」と言った。何度も言うが当時HAL研究所の社長である。
その後企画・仕様・デザイン・モデリング・モーションを桜井が担当、プログラムは岩田が行い、サウンドを安藤浩和(カービィの音楽で有名)の三人でプロトタイプを作り出し社内コンペに提出。
一度はコンペに負けたが勝った企画が頓挫した為、開発がスタート。
その際に「新規キャラクターが戦うだけだとどうしても認知されづらい」という考えから「任天堂のキャラで戦わせる」という案が上がり、岩田はその交渉役を務めることになる。
自身が組み上げたプログラムで動く実際のソフト(この時マリオドンキーフォックスサムスの4人を実際に戦わせた)を見せ宮本茂始め任天堂を認めさせた。
その後は持てる人脈を使いキャラクタ―を集めていく。
当時人気絶頂だったポケモンを使えたのも岩田の人脈があってこそだった。
こうして産まれたニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズは国内約197万本を売り上げ、HAL研究所の負債完済を手助けする大ヒットとなった。
42歳の若さで任天堂の4代目社長に就任
HAL研究所の社長を退き、同相談役に就任した岩田だが、前から目を付けていた山内溥に誘われる形で任天堂に入社。
その後わずか二年で任天堂の社長に就任している。
山内血族の就任でもなく生え抜きでもない42歳という若さは驚きを産んだが、当時としてはゲームキューブの立ち上げ失敗とプレイステーション2の大ヒットもあってか話題になっていなかった。
しかしその後は任天堂の社長として13年間、文字通り任天堂の顔として尽力していくことになる。
任天堂社長としてゲーム人口の拡大として「DS」「Wii」を世に送り出す
プレイステーション2にシェアを奪われてしまったが、「ヘビーユーザーにターゲットを絞っていては、いずれ市場が死んでいくのでは」との考えから「それまでゲームに触れたことのない人達を新たに取り込む」ために、直感的に操作できる新たなゲーム機の開発を進め、「ニンテンドーDS」と「Wii」を世に送り出す。
「ニンテンドーDS」「Wii」双方とも全世界で1億台を売り上げるメガヒット商品となり、任天堂をゲーム市場の中心に返り咲かせた。
その後の「ニンテンドー3DS」「WiiU」は苦戦を強いられる形となり、任天堂もスマートフォンアプリの台頭から来る戦略転換を迫られた。
スマートフォン向けアプリの開発に乗り出す傍ら新ハードの開発も発表。
その後のそのハードは「Nintendo Switch」として世に出ることとなり、任天堂の連結売上高を7年ぶりに1兆円に回復させる救世主となる。
しかしながら岩田はその成功を見ることが出来ずに2015年7月11日に永眠。
訃報の衝撃忘れられん
引用元: http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1614937386/